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第6回 「おもてなしの精神」とは何か ~歴史に学ぶ接遇の極意~ 

第22回 名ホテリエ、それぞれの流儀:その4

【月刊HOTERES 2015年06月号】
2015年06月23日(火)
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ホテルのいいところと旅館のいいところを合わせれば、日本独自のいいホテルが出来上がる――こう考えたホテリエがいる。山の上ホテルを創業した吉田俊男だ。彼は、驚くべきことに、自分自身で広告コピーを創案することで「おもてなしの精神」を表現した。
◎文・富田昭次(とみた・しょうじ)

ホテル・旅行作家。近著に『ホテル日航東京 ウエディングにかける橋』、中村裕氏との共著で『理想のホテルを追い求めて ロイヤルパークホテル和魂洋才のおもてなし』(いずれもオータパブリケイションズ)がある。

上野駅前で客引きを経験して
 
 1998(平成10)年3 月27 日付の朝日新聞がある旅館の廃業を大きく報じた。その旅館とは、井伏鱒二の名作『駅前旅館』のモデルにもなった東京・上野駅前のまつの屋旅館のことである。記事には「親子以上の親切」、「今後、どこに泊まればいいのか」といった顧客の声も載っていた。まつの屋旅館は半世紀の間営業を続けたものの、昭和の時代は遠くなり、使命を終えたということで幕を閉じたのだが、後に名ホテリエとなるある人物も若いときに、全盛時の駅前旅館の番頭たちに混じって“客引き“を行なっていたことがあった。ホテルオークラの副社長を務めた橋本保雄である。
 
 56(昭和31)年のことだそうだが、当時は山の上ホテルに入社したばかりのことで、次のように回想している。「私の担当は東京の北の玄関、上野駅だった。(中略)今晩宿の決まっていなさそうな、しかもあまり貧しげでない人を探して『もしお宿が決まっていらっしゃらないのなら、うちのホテルにお越し下さい』とやるわけである」(『感動を創る。――トップホテルマンが語る実践「サービス学」入門』TBS ブリタニカ、1989 年)。)
 
 山の上ホテルの知名度がまだ低かった時代、信用を得るために、橋本は身だしなみを整えて勧誘した。苦労して獲得したお客さまには、付きっきりでもてなしたという。
 
 そして「以来お客様との触れ合いの大切さを知った私には、営業マインドが身について、常に客室が満室でないと満足できなかった」。
 
「とにかく一生懸命やったことが、相手に何かしら感動を与えたのかもしれない。東京に出るときはおたくに泊まることにしたよ、と言って下さるなじみのお客様がたくさんできた」という。
 

三島由紀夫自筆の一文をあしらった山の上ホテルのパンフレット(筆者蔵)。添付された料金表から見て、発行は昭和30年代であろうか。三島のほか、石坂洋次郎や檀一雄、尾崎士郎といった作家の自筆文も掲載されていた。
三島由紀夫自筆の一文をあしらった山の上ホテルのパンフレット(筆者蔵)。添付された料金表から見て、発行は昭和30年代であろうか。三島のほか、石坂洋次郎や檀一雄、尾崎士郎といった作家の自筆文も掲載されていた。

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