独学で手に入れた理論と手法
片野は機上の人となっていた。今日は、あるホテルの売買交渉で持ち主と会うためだった。
現在、50歳となった片野は普段、自宅のある神奈川県座間市と本社やホテルのある大阪・中津、尼崎市、北九州市を忙しく行き来する。
自社の最初のホテル、尼崎セントラルホテルを購入できたのは2012年だった。15年にはRホテルイン北九州エアポートを所有・運営できるようになった(現在は運営のみ)。16年には大阪の中津に新しい形の拠点を持つことができた。Rホテルズイン大阪北梅田である。これはオフィスビルからのコンバージョン(転用)という珍しいホテルだ。
これまで、大阪のホテルを例外として、業績不振の既存ホテルを買収し、立て直してきた。
その仕事の流れはこうだ。まず、売却物件の情報が入ると、不動産鑑定士と一級建築士の資格を持つ役員が現地を見る。建物自体の価値を推し測るのである。そして、購入する価値ありとの結果が出ると、片野が乗り込んでいく。どの程度の収益性があるかを予測して、その数字を弾き出すのだ。いわゆるフィジビリティ・スタディである。その収益性に納得がいかなければ、断念する。そんな案件も少なくない。購入に結びつくのは、10件に1件の割合だ。
片野が数字に興味を持つようになったのは、40歳に手が届く頃のことである。在籍したホテルの上司に数字の強い人がいた。徹底的に教え込まれた。片野は、自分がトップに登りつめるには、サービスを武器にするだけでは足りないと考えていた。数字を押さえて初めて、組織の頂点に立てるのだと確信していた。だから、貪欲に学んだ。
そして、それから数年後のこと。また、新たな分野を学ぶ機会がやって来る。
リゾートホテルの運営会社に勤務したとき、数ヵ月間、ホテル売買の仕事をやらされた。片野は戸惑った。「なぜ私に……」という言葉が口から出かかった。
そこには、一匹狼が集まっていた。そんな会社の中で弱みを見せるわけにはいかない。いや、仮に見せることができたとしても、ずぶの素人に、ホテル(不動産)売買の理論や手法を教えてくれる人はいなかった。仕方なく、関連書を読みあさった。
言わば独学だった。が、そのとき、将来役に立つフィジビリティ・スタディの基本を自分のものとした。該当する敷地の広さや容積率、建ぺい率が分かれば、どれほどの客室のホテルが建つか、そんなことまで計算できるようになったのである。負けず嫌いの性格から得られた思わぬ成果だった。
……さて、今回の売買交渉だ。
機上の片野は思いを巡らせた。
片野は、ほぼ成功すると感触を得ていた。だが、契約書の印鑑を押す最終局面まで、何が起きるか分からないのが不動産売買である。
不動産業界には「手付金2倍返し」のルールがある。持ち主が翻意して、買い手に手付金を2倍にして返せば、話はなかったことになるのだ。
……いや、大丈夫だろう。信頼関係は築けたはずだ。何の問題もないはずだ。
第一回
連載 我、かく闘えり
プロローグ〈人の喜ぶ顔が見たいから〉
2018年03月07日(水)