「総支配人、ベルデスクを置いてください」
片野が大学を卒業してホテルの仕事に就いたのは、1990年の春だった。バブル経済の末期であったが、まだ、どの業界へも進める時期だった。そういう時代に、片野はホテル企業の入社試験しか受けなかった。
アルバイトでは原宿で販売員の仕事を経験していた。
……お客さまにいいものを勧めて喜ばれるのもいいけど、何かが違うんだよな。
片野の心には、いつもこんな疑問がしこりのように沈殿していた。
そんなとき、ふと思い出したのが高校時代に初めて利用した高級ホテルだった。高校野球の応援で甲子園に出向いた際、両親の知人が手配してくれた滞在先だった。
……こんな立派な世界が世の中にあるんだ。
高校生の片野には、天国に思えたことだろう。
……そうだ、ホテルで働くっていうのは、どうかな。ぼくが気持ち良く感じたことを、ほかの人にも味わってもらえたら、こんな素晴らしいこと、ないじゃないか。
片野は、ホテル業界への思い入れを次第に強くしていった。そして、第一の目標、念願のホテル入社を果たした。
だが、ホテルの仕事は、片野が思い描いていたように、すべてがバラ色に満ちているわけではなかった。腑に落ちないことが多々あったのだ。
「おかしいよな。なんでベルデスクがないんだろう。どこで待機していいのか分からないよ」
ベルボーイの仕事が慣れてくると、同僚とこんな言葉を交わすのがたびたびとなった。
その企業は、それまでリゾートホテルを展開してきた。片野が入社したのは、その企業にとっては初めての都市ホテルだった。それだけに、ベルデスクの必要性が分からなかったのであろう。
片野は「ベルデスクを設置していただけませんか」と総支配人に直訴した。程なくして、がっちりしたベルデスクが出来上がってきた。片野は思わず、なで回した。後に、部下の仕事ぶりに内心「そうじゃないだろ!」と腹を立て、蹴飛ばして傷をつけることになるのだが、このときは、自分の大切な“城”が出来たことの喜びに浸っていた――。
第一回
連載 我、かく闘えり
プロローグ〈人の喜ぶ顔が見たいから〉
2018年03月07日(水)