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第8 回 Part2 中村勝宏プレゼンツ ~美味探求~

第8 回 Part2 日本ホテル株式会社 特別顧問統括名誉総料理長 中村 勝宏氏 ×   ナベノイズム Nabeno-Ism 渡辺 雄一郎 氏

【月刊HOTERES 2019年01月号】
2019年01月25日(金)
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タイユバン・ロブションでの壮絶な経験
 
渡辺 
それで話は戻りますけど、アントナンさんのところには1 年いて、日本に。実は親友が交通事故で亡くなったんです。キャトーズ・ジュイエに事故に遭い、18 日に亡くなったんです、当時24 歳でした。次にミッシェル・トラマに行くことが決まっていたんですが、親友が事故で重体と聞いて、アントナンさんに申し訳ないことでしたが、連絡を受けて次の日に帰国させて頂きました。帰国後はジャックボリーさんのロオジエに入店したいと思っておりました。実はアントナンさんのところにいたころ、ロオジエのボリー夫妻が食べに来てくれたんですよ。
 
中村 それは嬉しいことでしたね!
 
渡辺 「28 歳でMOF になったアントナンさんの息子フィリップに会いに来ました」とわざわざ食事に来てくださいました。そのとき「実は…」とお話をしたところ、「じゃあロオジエ来る?」と言っていただいて。それで日本に戻って面接してもらいたいなと思っていたら、ボリーさんがヴァカンスで帰国してしまい、それで1 カ月マエストロに復職することになって。しばらくしていたんですけど、そのときにまた流れが変わって。今度はポール・ボキューズさんと正式に提携して、ポール・ボキューズ・トーキョーになるという話になって。それでまた2 年半働かせて頂きました。
 
中村 いやぁ、人それぞれの出会いは実に運命的ですね。もし渡辺さんがロオジエに行っていたらどうなっていたか、などと思ってしまいます。それではそろそろタイユバン・ロブションで働くきっかけなどを話していただけますか?
 
渡辺 そうですね。当時のボキューズさんの日本人料理長は佐々木さん、今、柏でル クープルというお店を経営されております。その時代に2 年半働いているうちに、どうやらタイユバンとロブションが組んで恵比寿に城を建てて何か始めるらしいぞといううわさが流れ始めました。僕がロブションさんを意識するようになったきっかけは、やはりステファンが持っていた本だったり、フランス校時代に行ったジャマンでの衝撃体験後だと思います。
 
中村 なるほど。1 年目、2 年目と星を重ね、3 年目で3 ツ星を獲得され、世界的にその名を知らしめた名レストランでした。
 
渡辺 そうです。そのジャマンでジュレ・ド・キャビア クレーム・シューフルール、アニョ・パストラルを食べたわけです。当時お金がなくてメニューが食べられなくて、6 人で行ってカルトでバラバラにオーダーしたら明らかにメートルの顔色が変わり(笑)。
 
中村 分かるなぁその気持ち、僕もパリで料理長として1 ツ星をとったころ、ギャルソンが持ってくる伝票を見て、日本人のお客さまだとすぐにわかるわけです(笑)。4 人だったら4 人ともバラバラで注文され、シェアされるわけです。
 
渡辺 そうそう(笑)。それで食べさせていただいたときの衝撃たるや。「なんだろうこれは! この滑らかさはなんだ!」と。もちろん、修行時代にも「どうしてカリフラワーであんなクリームが作れるのだろう」と、ミキサーで回すとか、いろいろやったんですけど、まったくあのテクスチャにならず。それで「これはもう潜入するしかない」と思いました。それでロブションさんが日本に来るのであればどうにかして入りたいと、そこで辻調理師専門学校の、当時フランス校時代にお世話になった木下先生にご相談させて頂きました。
 
中村 よく知っています。ガタイも大きいがエネルギッシュで人物もでかい!!

渡辺 おっしゃる通りです、その方が私の恩師であり、実は仲人もして頂きました。

中村 そうなんですか。それはそれは。ちょっと話は外れるけど、もともとホテルオークラの小野さんが年に1 ~ 2 回、特別講義で何年かやられていましたね。
 
渡辺 そうです、私も受講させて頂きました。
 
中村 実は小野ムッシュがお亡くなりになったあとの後任として、私に依頼がありました。辻さんは直接的にご面識はありませんでしたが、私は辻静雄さんが書かれた、『理論と実際』からフランス料理の理論的な部分で、多くを勉強させていただきました。
 
渡辺 はい! 僕も持っております。
 
中村 今まで技術的な面での本はいっぱいでていますが、フランス料理を文献的、理論的にまとめられた本としては、日本で初めてでバイブル的な貴重な本だと思っています。また、辻さんはフランス料理の古書のコレクターで、立派な本をお持ちであることを知っていましたから、その本を折々に閲覧できることを条件に講師を引き受けました。
 
渡辺 初めて伺ったお話です!
 
中村 話がそれましたけど、それではいよいよタイユバン・ロブションが来るということで、自分からアクションをしたわけ?
 
渡辺 そうです。まずはその木下先生に相談をさせていただいたら、「じゃあ河野シェフに連絡してみる」と、すぐ面接していただいたんですよ。それでマエストロ・ポール・ボキューズにいて、フランスでの経験があり、フランス語も少ししゃべれるということで、94 年10 月に初代のシェフ・ド・パルティ・ヴィアンドとして契約させていただきました。タイユバン・ロブションに第一期として入ったことになります。
 
中村 それはよかったですね。それでオープン当初はどうでしたか?
 
渡辺 もう地獄の忙しさというか、毎日昼80、夜80 の満席が2 年位、続きました。中村 当時マスコミでも常に取り上げられ、すさまじい人気ぶりでしたからね。出勤体制はどうなっていましたか?
 
渡辺 朝5 時半に起きて6 時には電車に乗り、7 時に調理に入りました。8 時にこようものなら大ひんしゅくですね。仕事を終え、夜中の1 時半くらいに家についていました。毎日それの連続でした。当時、新婚ホヤホヤだったんですけど、ほとんど家にいなく、今六本木のリューズのオーナーシェフ飯塚隆太さんが僕のサポートというか、2 人のコンビでやっていたんですけど、彼と過ごした時間の方がはるかに長かったですね。
 
中村 グランシェフには必ずそういった時代があってからこそ、今がある。という時期があるものです。フランス本店のジャマンでは、アプランティ(見習い)は朝の5 時出勤。シェフ・ド・パルティが8 時前後の出勤だったと聞いています。
 
渡辺 そうなんですよ、異様な世界でしたね。
 
中村 そうですね、それでも当時からロブションさんのもとで働きたいという若者がいたわけです。そういうところで鍛えられた料理人の精神面や技術的な面も含めて、なにかほかで得られないものを自身に培うことができます。渡辺さんを含めそれをやり通したことは、すごいの一言しかなく、心底尊敬します。
 
渡辺 恐れ入ります。それはもう実に貴重な時間でした。1994 年の開業時のときはジャマンから、フランス人が5 人来たんですよ。ブノワ・ギシャールさんとか、フィリップ・ゴベさんとか。もう本気でしたね、ロブションさんが引退前の一番エネルギッシュなときで、パリと同じメニューを提供していました。いつもコム・ジャマン、コム・ア・パリ(ジャマンやパリと同じ)ってよく言われ続けてました。
 
中村 
オープン前にジャマンに研修に行くとかはなかったですか?
 
渡辺 ス―シェフまでは行っていたんですが、われわれシェフ・ド・パルティはなかったです。パリと同じ料理を東京のここでやるというモチベーションが、料理人の中で「ちゃんとやろう」「正確なものを作りたい」というのがすごかったです。ロブションさんもほんとに鬼のように、ガミガミ、ガミガミ…。毎日怒ってましたね。
 
中村 ロブションさんのうわさは私もフランスで多くのことを耳にしていました。パリのホテル日航時代から常に完璧を求められ、決して妥協しない厳しいシェフで、すでにエコール・ロブション時代が始まっていたと思います。
 
渡辺 はい、とても厳格です。
 
中村 ロブションさんは、お皿の盛り付け一つとっても理解されますが、あそこまで正確さを求めるグランシェフは今までおられず、フランス料理界にとっても、一つのエボリューション(革命)であったと思います。
 
渡辺 本当にそのとおりです。すごかったですね…。もうほんとに。ポムピューレの「固さ」だけで、幾度となくバーンと突き返されていました。でも、すごく愛のある方だと僕は感じていました。タイユバン・ロブションの、カフェフランセで7 年料理長をやったんですけど、そこでも来日のたびに必ず食べに来ていただきました。まあ、味のチェックでもあったんでしょうけど。タイユバンのジャン・クロード・ヴリナさんや、すきやばし次郎の小野二郎さんたちも一緒にテーブルに着いたことがあって(笑)。すごいメンバーのテーブルになってしまった! と思いながら感謝、緊張しながら調理させて頂きました。
 
中村 しかし、オープン当初からシェフ・ド・パルティで一番つらい時期を共有しながらやれたというのは、料理人、人生の中で大変貴重な経験でしたね。
 
渡辺 そうです。もう二度とできない経験だと思います。そのときの精神は、野球の冬の練習よりはきつくないなと思いながらやっていました(笑)。僕は高校時代の監督に、「怒られ上手になりなさい」と言葉をいただき、それが社会人になってからも残ってました。
 
中村 そういうふうに理解して望むということが大切だけれども、しかしみんなができるわけでもないです。
 
渡辺 最初は意味が分からなかったんですけど、社会人になって怒られる立場になって、先輩に言われる立場になって、真に理解できます。感謝しかないですね。注意をしていただくというのは、自分の何かに気付いて注意していただいているんだという考えを持つようにしようと。怒る方もスタミナいりますし、疲れますし。そういったすべてを考えていこうと思うようになりました。
 

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