日本ホテル株式会社 特別顧問統括名誉総料理長 中村勝宏 氏
ナベノイズム Nabeno-Ism 渡辺 雄一郎 氏
はじめに
十六名の食のエキスパートと対談をした前回に続く第二段として、新しい視野の元、敬愛する方々との対談を行なっていく本連載。第8 回の今回はレストラン Nabeno-Ism(ナベノ- イズム)の渡辺 雄一郎氏にご登場頂いた。
親に内緒で大阪の調理学校に体験入学
中村 今日はとても忙しい中ありがとうございます。まずは渡辺さんが料理の道に入られたきっかけからお聞きしましょうか。
渡辺 まず、母が料理好きで自分の家に料理の本がたくさんありました。土井勝先生や田村魚菜先生の本があり、母はいろいろな料理を作ってくれましたね。
中村 それだけで渡辺さんが目指した道が分かるような気がします。で、お母さまはお元気なんですか?
渡辺 もう81 歳になりますが、元気です。たまにお友達を連れて食べに来てくれます。
中村 それはそれは。しっかりと親孝行できていいですね!
渡辺 そうですね、料理人として働いている姿を見せることができてよかったと思っています。僕らの時代って男の子が料理するのが恥ずかしいというような時代だったんですけど、卒業文集に「プリンスホテルの料理長になりたい」と書いていたんですよ(笑)
中村 それは大したものだ!
渡辺 卒業文集も「料理人になる」というタイトルで。そのときの小学校の中澤先生がすごく応援してくれました。「ゆうちゃん格好良い。はやくゆうちゃんのお店に行ってみたいわ」と一筆書いてくれて。それが心にずっと残っていました。
中村 小さいながらもそういったことが料理人の道に後押ししてくれたんでしょう。
渡辺 そのとおりですね。先日も私の店に来ていただき、涙、涙でしたね。「先生冥利につきるわ」と言っていただきました。
中村 先生も今のあなたの姿に限りない感動と、自分が先生であったことの誇りと喜びが大粒の涙となったんだろうね。とてもいい話です。それで高校をでて、料理学校に行かれましたね?
渡辺 そうです。高校野球をやって、その後大阪の料理学校へ進みました。
中村 そうそう、渡辺さんの青春は野球づけだったんだよね。
渡辺 そうです、世代でいうと清原、桑田世代で。僕らは千葉県のベスト4 で負けましたが、僕の料理人におけるバックボーンと言うか、精神的、体力的な支えはこの時期にあると思います。
中村 心身ともに何事にもくじけない、耐えるという身体を培った、今にして貴重な時期だったわけです。
渡辺 はい、とても感謝しています。それでその後、一浪し、大学進学も考えましたが、やはり料理人になりたいと、決意しました。実は、親に内緒で一人で大阪まで一日体験入学を受けに行ったんですよ。
朝、「予備校に行ってきます」と言って家を出て、そのまま新幹線に乗って大阪の辻調まで行きました。
中村 すごいね、それだけの熱い想いがあったということにつきます。その頃はまだ先代の辻静雄校長もいらっしゃった?
渡辺 そうです。小川先生が亡くなった年で、水野先生の一年目でした。ですから私は水野先生チルドレンの一期生なんですよ。
中村 なるほどなるほど。あの方も実に熱くて教育熱心な先生でした。
渡辺 そのとおりでしたね。それでやはり調理師学校はお金がかかりますから、家に帰って両親を前に土下座をして「調理師学校はこれだけ学費がかかるから学費を貸していただけませんか」とお願いしました。
中村 えらいなぁ。親に金を出してくれではなく、貸してほしいと願うところが実にえらい!
渡辺 父はすごく怖い人で、厳しく育ててもらいすごく感謝しております。怒られることを覚悟で話をしたんですけど、黙って頷いて「わかった」と言ってくれたんですよ。後日、父が亡くなる前に、「あのときのお前の顔は忘れられない」と言うんですね。
中村 今どき、いい話です。渡辺さんのその時の一生懸命さが伝わったのだと思います。
渡辺 それを亡くなる間際までずっと言っていました。
中村 それは、明確に、かつストレートに自分のやりたいことを打ち明けられ、父親としてもとても嬉しかったのだと思います。でも当時はすでにフランスでの研修制度がありましたね。
渡辺 そうです、調理師学校を出たあとの2 年目にフランス校、シャトー・ド・レクレールに進学させていただきました。
中村 行ったんだ。そうなると当然、現場の有名レストランでの研修にも行った?
渡辺 そうです、僕はクシュベルのル・シャビシューに行きました。