渡辺 そうなんですよ。僕も職場選びのとき、「フランスを忘れたくない」という考えのもと、フランス人のいる職場を探しました。
中村 そうなると、当然現場ではフランス語が飛び交って。
渡辺 そうです。料理のオーダーはすべてフランス語でした。そのマエストロという店は、辻調が立ち上げていましたので、初代の日本人料理長は杉山先生でした。やはり辻調とボキューズさんの付き合いというのは深いものがありますよね。
中村 それは揺るぎないものでした。当時フランスではジャン・トワグロさんとボキューズさんは特別な存在で、お二人はプロ仲間からも英雄的な立場におられましたからね。
渡辺 へえ…。トワグロさんはソースの神様と言われていましたけど。
中村 確かにソースもすごかったけど、立ち振る舞いと従業員に対する接し方が素晴らしかったですね。僕は夏場に一ヶ月間のみ研修で行きましたけど、行って3日でシェフ・ポワソニエが病気で出て来れなくなって、その日ジャンさんから「ジャポネ!」と呼ばれ、「明日からシェフ・ポワソニエでやれ!」と言われました。スタジエ(研修生)として入り、3 日目ですよ!
ジャンさんがニコニコして「ボンジュール」と言いながら調理場に入ってくると、本人は笑顔ですが、一瞬で空気がガラッと変わり、スタッフに緊張が走るわけです。当時夏のバカンスの全盛期で、昼夜とも満席です。ディナータイムの時ですが、山場になると、どこかのタイミングで、サービスがずれてくると、ジャンさんが、「アゲテ!(止めろ!)」と怒鳴り、一瞬すべての流れが止まります。
そこで、メートル・ドテルを呼び、ボン(オーダー表)を整理させ、その間5、6 分みんな待つことになります。それから改めて、スタートになるわけですが、毎晩儀式みたいなことでしたね。いまでも私は、ジャン・トワグロさんは最高のグラン・シェフだったと尊敬の念をいだいています。さて横道にそれましたけれど、渡辺さんはボキューズのあと、どうされたんですか?
渡辺 すごいお話ですね。ポール・ボキューズで2 年半働いたときに、ジャン・フルーリーさんから「俺の知り合いのところを手伝いに行かないか?」と言われました。当時私はボキューズさんが来日したとき、必ずボキューズさんのまかない係をやっていたんです。ポタージュ キュルティバトゥールを作って、あとはプラトー・ド・フロマージュを用意してサラダトマトを用意。それを毎日作っていました。