「彼を知り己を知れば百戦殆あやうからず」、有名な孫子の兵法の一つである。現代において経営者はコンペティターの動向を把握し、営業マンは営業先の現状把握が必須。時代は変われど、「相手を知る」という本質は変わらない。昨年から引き続き週刊HOTERES は、人脈マッチングスペシャリスト、TOPCONNECT ㈱代表取締役 内田雅章氏をファシリテーターに、企業存続のノウハウや秘訣を探るべく、トップ企業経営者との対談を実現。第13 回は、㈱Wmedia 代表取締役 村上範義氏に登場いただき、東京ガールズコレクションの裏側と、その先に広がる地方創生との関りについて伺った。
ガールズファッション発信の仕掛け人
㈱W mediaと東京ガールズコレクション
内田 ㈱W media の事業概要についてお聞かせください。
村上 「日本のガールズカルチャーを世界へ」、このメッセージをキーに、主にF1 層(※ 1)をターゲットにしたイベント企画・運営、PR・ブランドコーディネート事業を展開しているのが、私たち㈱W mediaです。多岐におよぶ弊社事業の中で、核であり最も有名なものが、年2 回東京で開催される『東京ガールズコレクション』、通称TGC となります。今年3 月で22 回目を迎える本企画は、単なるアパレルイベントの領域を超えた位置づけにあり、「TGC 北九州2015」のように冠に飾ることでセカンドブランド的な役割を担いながら、地方創生にも貢献しています。また近年はクールジャパンの名の下に、アジア市場に向けた日本のガールズカルチャーの発信、そしてビジネスの原動力となるムーブメントを生み出す仕掛けに取り組んでいます。
内田 東京ガールズコレクションに携わるきっかけや、企画の役割や背景を伺えますか。
村上 企画立ち上げ当時は私が大学を卒業して間もないころで、学生時代から知り合いだった前社長にお声がけいただいたことが今日までのきっかけです。背景としてあったのは、日本独自に派生し、進化を続ける若い女性を中心としたファッション業界のポテンシャル。専門誌を並べただけでも、ファッションがここまで細分化されたマーケットは世界中どこを見ても存在しません。ただ、島国という条件下で成長と細分化を続けてきたマーケットゆえ、経済やブランドにおける発信・発表の場が必要とされてこなかった。一方で海外に目を向けると、パリコレクションやミラノコレションなどが世界的に有名ですよね。ある企業が海外での展開を視野に入れたとき、そういった世界的に影響力のあるイベントへ参加することができればよいのですが、なかなか単一企業ができることでもなく、自社での訴求となると、その効果には限界があります。そこで私たちが中心となり、企業や事務所間の垣根を越えた存在として、すべてのガールズアパレルの発信・発表を等しく担うべく、「東京ガールズコレクション」というシンプルかつ認知しやすいネーミングで、2005 年の8 月、国立代々木競技場第一体育館で第1 回が開催されました。
内田 現在の位置づけまで昇華するにあたり、どのような戦略をもって第22回まで来られたのでしょうか。
村上 開催前の企画・運営にあたり、単なるファッションイベントではなく、「ムーブメントを生み出し、経済にも密着する」という明確な目標を持って出発しました。目的の達成にあたり、どれだけの人・業界に注目してもらうかというのが非常に重要となります。モデル選びでは、予算ももちろんありましたが絶対にトップモデルを巻き込む。そうすることで、若い女性の間で話題や関心が高まりますし、TV はもちろん、自社媒体の専属モデルが登場するとなれば、各女性誌も放ってはおきません。ただこれだけでは、ファッション業界や芸能メディアの枠を越えることができない。そこから新聞などを通じて、広く一般の方々の目にも触れていただくために必要なことが、経済とのつながりです。本企画を通じることで、アパレル産業を中心とした日本の衣食住の“衣”の部分や、現代の女性像を発信・発表する。そういった社会的な要素も加えることで、初回から日本経済新聞や繊研新聞などにも取り上げていただきました。加えて携帯電話の品質向上、多機能化がどんどん進んでいた時代。
いずれパソコンで行なわれているようなネットショッピングが、より手軽にかつリアルタイムで行なわれるタイミングが訪れると感じていたことや、「最先端テクノロジー×ファッションイベント」という異色感も注目のきっかけになるだろうと、ショーを見ながらその場で携帯から服を購入できる販売連動も初回から仕組みを作りました。市場のポテンシャルは感じていたものの、何の前例もないゼロポイントからのスタートだったので、とにかくメディアとの接点となるきっかけ創づくりに注力しました。そして第1 回の成功と注目度の高さを受け、ステークホルダーや協賛企業の獲得、モデル、ファッション業界との強固な関係を築いていった結果が今日です。
今でこそ社長としておりますが、当時は全国の事務所やメディアとのやりとりを一人で行なっていたので、深夜まで働き、電話でのやりとりは毎日最低200 件近くこなしていました。