本連載も12 回目となり、1 年を迎えることができた。これでいったん一区切りとしたい。とりあえずのトリを飾っていただくのは、「二岐温泉大丸あすなろ荘」の社長であり、「日本秘湯を守る会」の名誉会長も務めていらっしゃる佐藤好億氏である。わが国の高度成長期以降、温泉地の旅館は「温泉ホテル」とその名を変え、歴史ある木造の建物は次々に取り壊しの憂き目にあい、建替えられて高層化していった。こうした変化は、「観光の大衆化」に応えるべく、当時としては仕方のない方向だったのかもしれないが、そのように変化した温泉街の多くが衰退していったのは周知のとおりである。
ご自身も「秘湯」の経営を続けられる一方、「守る」活動も続けておられる佐藤氏に、日本の温泉のあり方についてヒントをうかがった。
徳江 今日は新幹線の新白河駅から来ましたが、かなり山奥にまで入るのですね。驚きました。
佐藤 まさに「秘湯」な場所でしょう?
徳江 そう思います。山道をぐんぐんと上っていくと、林が途切れて数軒の旅館が並んでいる…まさに昔の日本の湯治場への道のりを感じました。
佐藤 ここまでの道路も、ちょっと前までは舗装されていなかったんですよ。
徳江 その頃は、さぞや秘湯の雰囲気が色濃かったのでしょうね。
佐藤 そういった風情がある温泉地も少なくなりました。
徳江 その意味では、まさにそういったシチュエーションを「守る」ために、「日本秘湯を守る会」を発足させたのでしょうか?
佐藤 昭和40 年代というのは、日本の高度成長期で、多くの観光地が大衆化していきました。大勢の方が観光をするようになり、あちらこちらの旅館がどんどんと建て替えていきました。
徳江 その背景としては、銀行の存在も大きいのではないでしょうか?
佐藤 おっしゃるとおりです。「これからは観光だ」とばかりに、銀行はどんどんお金を貸し、次々に旅館が建替えられ、ホテルと名が冠されていきました。