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第6 回 Part1 中村勝宏プレゼンツ ~美味探求~

第6 回 Part1 ホテルメトロポリタンエドモント 統括名誉総料理長 中村勝宏氏×翁達磨 店主 高橋邦弘氏

【月刊HOTERES 2018年08月号】
2018年08月24日(金)
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ホテルメトロポリタンエドモント 統括名誉総料理長 中村勝宏氏
翁達磨 店主 高橋邦弘氏

はじめに
 以前、このホテルレストランの誌面で十六名の食のエキスパートの方々と対談させて頂いた。このことはかけがえのない財産となっている。そして改めて食の深さを知ることとなった。今日、世界的にさまざまな問題が生じ混沌として厳しい時代となった。しかし私どもはいかなるときも食と向かい合ってゆかなければいけません。この度の対談の再開にあたり、新しい視野の元、敬愛する皆さまと互いの胸に響きあえる対談を心してまいりたい所存です。

高橋邦弘
Kunihiro Takahashi
1944 年東京都生まれ。72 年片倉康雄の「日本そば大学講座」に入門、蕎麦打ちの世界に入る。年宇都宮「一茶庵」で修行を始める。修行のかたわら片倉康雄の蕎麦教室の師範代を務める。75 年東京都 南長崎に「翁」を開店する。79 年長野県池田町にて蕎麦の栽培を始める。85 年南長崎「翁」閉店。86 年山梨県 長坂に「翁」開店、自家製粉開始。玄蕎麦を求めて全国の産地を訪ね、生産者たちと交流を広める。2001 年広島県豊平町長笹「達磨・雪花山房」にて、蕎麦指導を中心とした活動を開始する。現在、全国の蕎麦会、蕎麦祭り等で各地を飛び回っている。

中村勝宏
Katsuhiro Nakamura
1944 年鹿児島県生まれ。高校卒業後、料理界に入る。70 年渡欧。チューリッヒの「ホテルアスコット」を皮切りに、以後14 年間にわたりフランス各地の名だたるレストランでプロの料理人として活躍する。79 年パリのレストラン「ル・ブールドネ」時代に、日本人としてはじめてミシュランの1 つ星を獲得。84 年に帰国。ホテルエドモント(現ホテルメトロポリタン エドモント)の開業とともにレストラン統括料理長となる。2003 年フランス共和国より農事功労章シュヴァリエ叙勲。08 年の北海道洞爺湖サミットでは、総料理長としてすべての料理を指揮統括する。10 年フランス共和国の農事功労章オフィシエ叙勲。13 年日本ホテル㈱取締役統括名誉総料理長に就任。15 年クルーズトレイン「TRAINSUITE(トランスイート)四季島」の料理監修。16 年フランス共和国農事功労章の最高位「コマンドゥール」を受章。

 
母の影響で蕎麦の道へ
 
中村 私は前々から高橋さんに蕎麦のことについてゆっくり話を聞かせていただきたいと願っておりました。広島より大分に行かれた折、体調を崩され、なかなかその機会を見出せずにおりましたが、今回、東京に出てこられることを知り、早速連絡させていただき対談の時間を作れるかお伺いしましたところ、快く引き受けてくださり、とても感謝しております。今日は限られた時間ですが、一つよろしくおねがいします。早速ですけれども、高橋さんはもともとどちらの生まれで、蕎麦とはどういった出会いがあったのでしょうか。
 
高橋 私の母方の祖母と祖父が新潟県の糸魚川出身でして、その後東京に出て銭湯を営んでおりました。私は1944年生まれなのですが、戦時中、空襲が激しくなって母親が糸魚川に疎開をしたわけです。そこで私が産まれましたが、でも戸籍は東京に移しているわけですから、普段は東京生まれだと話しております。
 
中村 それはそれは。くしくも今の話で私と同じ歳だとわかりました(笑)。それで、蕎麦の出会いといいますか、関わりは?
 
高橋 いやいやそうでしたか。まず母親がよくうどんを打っていました。兄弟4 人いるんですけど、母親のうどん打ちを手伝うのは私だけでした。たぶん小さい頃から料理に興味があったんでしょうね。うどんや蕎麦だけに限らず、家族みな麺類は好きでしたね。
 
中村 それはそれは。お母さんの影響が大きかったのですね。実は私も母親の影響が大きかったと思います。それで実際に蕎麦をやろうと考えたきっかけは?
 
高橋 高校を卒業するときに、蕎麦屋になりたいと母親に言いました。当時、工業高校に行っていたので、「せっかく工業高校に行ったのだから、蕎麦屋みたいな水商売はやめて、ちゃんとした仕事にしてくれないか」と言われ、それで考え直して会社勤めをしたわけです。それでもやっぱり蕎麦屋をやりたいという気持ちは捨てきれなかったんですね。あるとき、上野にある有名な中華料理の東天紅でラーメン大学が実施され、それと同時に「日本そば大学」というのを、私の師匠である片倉康雄がやっていたわけです。
 
中村 その片倉康雄さんという方はどこかでご自分のお店を持たれていたのですか?
 
高橋 ええ、足利に一茶庵というお店を。その前は東京でやっていて、一世を風靡した方でした。もともと手打ち蕎麦はあったんですけど、それを復活させた人ですね。私がちょうど新聞でその記事を見た時に、機械打ちの蕎麦を手打ちに切り替えていこうという事業がありました。来られている方の殆どがプロの方でしたけど、その教室を受けに東天紅に行きました。その教室で蕎麦の打ち方を覚えたわけですが、そのままではとても商売はできません。そこで片倉康雄のもとに出向き、弟子入りを希望しました。そのころ東京と宇都宮、足利と桐生に4 店舗支店があって、すべて息子さんや娘さんがやられていました。もちろん皆さんは本店を希望するわけですが、私はそのとき28 歳でしたので、宇都宮の店に行かされました。この店は次女のご主人がやられていましたけど、なんでもやらせてくれましたね。それで片倉康雄が蕎麦教室のために毎週東京に出て来られる。そのお手伝いを「勉強になるからやってみろ」と言われて、宇都宮から群馬県太田市に行って、先生を車に乗せ、蕎麦教室まで送り迎えをしていました。片倉康雄自身は心臓も病んでいましたし、腰も痛めていたので、私に師範代をやらせてもらいました。
 
中村 師範代と言うと、実際に教室に来られている方々の前で師匠の解説のもとに蕎麦を打つということですか?
 
高橋 はい、そのとおりです。実際に打たせてもらいましたが、そのかわり結構厳しかったですけどね。
 
中村 それは大変でしたでしょうが、大きな勉強の場となりましたね。
 
高橋 そのとおりですが、皆さんの前でビシビシ言われましたね。機嫌の良いときはいいんですけど、悪いときは私の蕎麦打ちを「悪い見本です」みたいに言われるわけです(笑)。でもそのおかげで仕事は覚えました。最初のころは息子さんたちが助手でやっていたわけですが、段々と私が運転手兼助手でやるようになりました。そういった意味では、宇都宮のご主人が理解があったわけです。仕事もやらしてもらったので、宇都宮に配属されたのは運が良かったということになります。
 
中村 なるほど。でもご本人がその折々の場をいかし、いかに蕎麦のことを会得していけるかに集中されていたのが、すべてに通じたのでしょうし、チャンスを自分のものにされたのだと思います。それで独立されたのはいつごろなのでしょうか?
 
高橋 3 年目でしたね。ちょうどそのころ宇都宮に東北新幹線ができて、駅の反対側が開発されるということで支店を出そうという話がありました。「高橋、お前は金がないんだから支店長でそこをやれ」と言われ、自分としてはやる気になっていたのですが、その後いろいろと大家さんとのトラブルがあって、そのお店は流れてしまいました。でも宇都宮のご主人が、「どうせやろうと思ったんだから、3 年経ったわけだし東京で独立したらどうだ」と言われて東京でやり始めました。

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