高校3 年生の春、親父から飛び出した“出で行け!”のひと言を機に、ホテルマン人生を歩むことになったのがグリーンヒルホテル浅野 充社長だ。1969 年開業準備室だったホテルプラザ(大阪)入社以来、2年間飲食業を経験しつつも、人生の大半をホテル業に託し、あと2 年でホテルマン人生50年を迎えようとしている。元々はアルバイト先のうどん屋の店主であった元ホテルの料理長との出会いによりホテル業界で働くことを勧められたことに端を発する。今でもどんなに遅く帰ろうとも朝4 時に出勤し、朝食の場面から立ち会う。常に現場を大切に思い、“明るく、元気に、前へ”をスローガンに神戸、明石でホテル3 店舗を経営している。ホテル業界の立役者である浅野充社長にホテルマンたる心得をお聞きした。
福永 浅野社長は、ホテルマン人生一筋に50 年を歩まれてこられました。ホテル業界始めサービス業界は今の世代にとっては魅力が薄れているのか、どのホテルも人材不足に悩まれています。今日まで歩まれてきた50 年の経験の中で、採用から人材育成まで、取り組まれていらしたことをお伺いできればと思います。そもそも、ホテルマンになられたきっかけは何だったのでしょうか。
浅野 最初からホテルマンを志願していたわけではありません。当時の大学は学生運動全盛期でしたので、学生たちが怒濤を組んで声を張り上げていた時代です。こんなところではまともに学ぶことができないと思い、合格していたのですが親には不合格と伝えました。ところが翌朝の新聞に合格名簿が掲載され、私の名前を見つけた父が“出ていけ!”と一喝。その言葉にあてもなく家を飛び出したことに始まります。生活のためにたまたま見つけたアルバイト先のうどん屋の店主が私の仕事ぶりを見て、“お前はホテルマンに向いている”と言われ、ホテル専門学校の志願書まで取りに行ってくれたのです。アルバイトは皿洗いをしていたのですが、皿洗いの仕事はお客さまが帰ってからの仕事ですから、空いている時間にサービスを手伝ったりしていました。その動きを見て元々ホテルの厨房に勤めていた店主がそのように感じたようです。私はホテルへは行ったことがありませんし、見に行ってこいと言われても敷居が高くて入ることができなかったほどです。専門学校の学費までは面倒をみてもらえませんでしたので、母親を説得し支援していただき専門学校に入学。主席で卒業するほど一生懸命学びました。当時は1 年間でしたので19 歳からホテルに就職、これから開業するホテルプラザの門戸を叩いたのが私のホテルマン人生のスタートでした。