アジアの高級リゾート開発に携わって25年、アンソニー・ラークは真のラグジュアリーは上っ面だけのものではないことを誰よりも理解しています。
アンソニー・ラーク
「僕にとっては“プライバシー”が最も重要なラグジュアリーの要素なんです。誰も見えない、誰からも見られないスイート、オーシャンヴューのプライベートプール、寝心地のよい良質なベッド、静かなエアコンディショナー――それがラグジュアリー。真のラグジュアリーはモノによって得られるのではなく、経験によって得られるものなのです」
アンソニーが初めてプーケットに来たのは1988年のこと、シドニーのリージェントホテル(現在のFour Seasons)で働いた後でした。シドニー生まれのアンソニー・ラークはシドニーの5つ星ホテルのバスボーイとして働く傍ら、大学で建築の勉強をしていました。その後、ホテルビジネスにより興味を持つようになり、4年間でホテルのあらゆる業務を担当、ついにシドニーの5つ星ホテル「ウェントワースホテル」のフルタイムスタッフとなったのです。
1982年にリージェントホテルに移ったアンソニーは、そこで初めて5つ星ホテルの何たるかを体験することとなります。そして、27歳になった1988年は大きな転機の年でした。アマンリゾート創設者であるあのエイドリアン・ゼッカにヘッドハントされ、GMとしてアマンリゾート初のプロパティ「アマンプリ」をプーケットにオープンさせることになったのです。当時では革命的なコンセプトを実現させた、まったく新しいタイプのリゾートでした。
アンソニーは、その革命的なリゾート「アマンプリ」のGMになっただけでなく、続く12年の間に、4つのアマンリゾートを華々しくオープンさせることになりました。それはホテル業界ではまだまだ駆け出しの若きオージーにとって、またとないビッグチャンスだったのです。
「エイドリアン・ゼッカの面接を受けるまでは香港なんて行ったこともなかったんです。あれは古いヒルトンホテルだったなあ。エイドリアンは当時はまだ出版人でした。たったひとりでこんなビジネスを始めるなんて、多分、彼が初めてだったでしょう。まったく新しいマーケットを創造したんですよ。まあ、僕らはその副産物みたいなものですね」
その後、1990年代後半に起こったアマン社内事情の変化は、エイドリアンをアマンリゾートから去らせることとなります。そして、アンソニーもエイドリアンと同じような思いでアマンを去ることにしました――それは「トリサラ」という彼自身の仕事に向けての出発でもありました。
アマンリゾートが80年代後半にアジアのハイエンドリゾートの新たなコンセプトを打ち立てたとすれば、「トリサラ」はそのコンセプトをさらに洗練されたものにしたリゾートと言えます。究極の“ミニマリスト”志向を追求しつつ、ゲストに対してもっと細かい配慮を施していきました。
‟Trisara”はサンスクリット語で“The Third Garden in Heaven”を意味しています。まさにアンソニーの人生にとって「トリサラ」は、3番目の天国の庭造りだったのかもしれません。
この10年間、「トリサラ」はプーケットでは比類のない高い評判を得てきました。アンダマン海に面した40エーカーという広大な敷地に展開する、48のプール付きヴィラと20の格調高いレジデンスへのエントランスには、小さなリゾートの表示があるだけ。
「トリサラ」はさしたる広告もしません。にもかかわらず、数々の有名な賞を受賞、現在もトリップアドバイザーでは同サイト最高の栄誉と言われるトラベラーズ・チョイス・アワードでプーケットNo.1のホテルに選ばれています。
(他にも2016年「コンデナスト・トラベラー」のゴールド・リスト〈プーケット唯一のホテル〉、「ロブ・レポート」のトップ100リゾートなど受賞多数。)