江頭は、当時アメリカで「外食王」と呼ばれていたハワード・ジョンソンの伝記を読んで感銘を受け、「飲食業を産業にする」ことを目標にしていた。そのころの日本では、飲食業は「水商売」といわれていた。ロイヤルでも、はじめは店舗を増やすごとに一流のレストランからコックを引き抜くなどしていた。
しかしアメリカではハワード・ジョンソンが700 店舗を超えるレストランを展開し、飲食業でも立派に産業として認められていることを知り、江頭は日本でもレストラン経営を合理化・効率化し、水商売から脱皮して「産業」にしようと考えた。
技術と手間のかかる仕込みや一時調理は一カ所で集中調理し、店舗では仕上げ調理をするだけという仕組みを作り上げようとした。万博の前年の1969 年には、日本では例のない大規模なセントラルキッチンを建設し、特別な技術を持った職人を多く抱えずとも、高品質のものを大量調理できる体制を作り上げ、同年現在の「ロイヤルホスト」の前身となる市街地専門店の「ロイヤルホスト」1 号店を福岡の大名に開業した(現在のスタイルではなく焼肉とハンバーグの市街地専門店)。
同じころ、大阪万博に出店する準備をしていたハワード・ジョンソン。各国館のレストランはその当事国が運営するものとなっていたが、「採算が合わない」として手を引くことになった。その肩代わりに駐日米国大使館から江頭に出店要請があり、ロイヤルが外国店扱いでアメリカ館での運営をすることになった。カフェテリアレストラン・ステーキハウスやハワード・ジョンソンショップ、ケンタッキー・フライドチキンといった店舗の運営を請け負ったのである。
アメリカ館でのレストランは予想をはるかに超える実績をあげた。合理的で効率の高いアメリカ式の運営は、当時の飲食業界に革命を起こしたのである。福岡のセントラルキッチンで一次調理した料理を、冷凍車が約600㎞の道のりをかけて万博会場まで毎日運ぶという、当時の日本の飲食業の常識からすると考えられない手法を取り込んだのも成功の大きな要因であった。
当時アメリカで隆盛を誇っていたレストランチェーンやファストフードチェーンには、江頭だけでなく日本の多くの企業が関心を寄せていたので、そこにロイヤルが万博で実現して成功させたことは、その可能性を狙っていた多くの企業に火をつけることになった。
長い年月を経て日本の経済環境も変わり、次回の大阪万博はどのような影響を与えるのであろうか。IR(総合型リゾート)誘致にも積極的な大阪。万博会場開発にはIR も抱き込んだ計画も現実味を帯びてくる。いずれにしても大阪万博は予想もしていない化学変化を呼び起こすに違いない。